鄧小平は周恩来が文革期に毛沢東に妥協して走資派(実権派)粛清に協力したことに複雑な胸中だったと言われるが、記者に対してはこう語っている。[6]
「彼(周恩来)は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、我々は下放(地方、農村での思想矯正)したが幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、心に違うことをいくつも語り、心に違うことをいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」
建国後北京の有名な料理店で店員間で起こった揉め事の仲介人をかって出ている。双方の言い分を聞いてから「どっちも悪いことがわかった」と言った。なぜかと尋ねる店員たちに対して「お前さんたち、お客さんに料理を出してあげていないじゃないか」と答えたという。
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自らの計らいで元清国の皇帝であり、その後満州国の皇帝となった愛新覚羅溥儀を満州族の代表にしたことがある。下層階級が多く、教育、教養程度が低く伝統、古典文化に拙い者が多い共産党幹部の中では珍しくフランス留学の経験もあり、名家の出であった周恩来は革命後の溥儀の不遇を哀れんでいたとも言われている。
溥儀の弟・溥傑に対しても親切であった。1954年に日本にいる彼の長女・愛新覚羅慧生(en)からの手紙を読んで感動し、獄中の溥傑と日本にいる妻子(嵯峨浩と2人の娘)との文通を認めた。また、1960年に溥傑が釈放された際も嵯峨浩の中国行きを歓迎した[7]。