2009年06月30日

鄧小平は周恩来が文革期に毛沢東に妥協して

鄧小平は周恩来が文革期に毛沢東に妥協して走資派(実権派)粛清に協力したことに複雑な胸中だったと言われるが、記者に対してはこう語っている。[6]

「彼(周恩来)は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、我々は下放(地方、農村での思想矯正)したが幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、心に違うことをいくつも語り、心に違うことをいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」

建国後北京の有名な料理店で店員間で起こった揉め事の仲介人をかって出ている。双方の言い分を聞いてから「どっちも悪いことがわかった」と言った。なぜかと尋ねる店員たちに対して「お前さんたち、お客さんに料理を出してあげていないじゃないか」と答えたという。
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自らの計らいで元清国の皇帝であり、その後満州国の皇帝となった愛新覚羅溥儀を満州族の代表にしたことがある。下層階級が多く、教育、教養程度が低く伝統、古典文化に拙い者が多い共産党幹部の中では珍しくフランス留学の経験もあり、名家の出であった周恩来は革命後の溥儀の不遇を哀れんでいたとも言われている。

溥儀の弟・溥傑に対しても親切であった。1954年に日本にいる彼の長女・愛新覚羅慧生(en)からの手紙を読んで感動し、獄中の溥傑と日本にいる妻子(嵯峨浩と2人の娘)との文通を認めた。また、1960年に溥傑が釈放された際も嵯峨浩の中国行きを歓迎した[7]。

2009年06月12日

家族療法(かぞくりょうほう;Family Therapy)とは

家族療法(かぞくりょうほう;Family Therapy)とは、家族を対象とした心理療法の総称。家族療法は、様々な治療効果研究の複合体であるが、次第に、一般システム理論の視点が取り入れられるようになり、現在では一般システム理論に基づいた(システムズアプローチという)家族療法が主流となっている。
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
潮干狩り
相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山


システムズアプローチによる家族療法では、家族を、個々の成員が互いに影響を与えあうひとつのシステムとして考える。そのため、家族成員に生じた問題は、単一の原因に起因するものではなく、互いに影響を与え合う中で、問題を維持する原因と結果の悪循環を描いていると考えていく。そこで、問題を抱えた家族成員を、従来のクライエントという呼び方ではなく、家族を代表して問題を表現している人という意味で、IP(Identified Patient;患者と見なされた人)と呼ぶ。

家族療法の基礎理論 [編集]
ダブルバインド(二重拘束仮説)
一般システム理論
サイバネティックス
オートポイエーシス

2009年06月08日

道徳を守ることは正しいことであると広く考えられており

「道徳を守ることは正しいことである」と広く考えられており、「なぜ殺人はいけないのか」というように道徳に対して疑問を示すこと自体が不道徳的であると嫌悪されることもある。我々は直接自分に関係がない場合であっても他人の行動を気に掛け、道徳と規範に従っているかに注視する。道徳に反する行為は通常、本人に罪悪感を、それを目撃した第三者には嫌悪感や怒り、報復など強い感情的反応を引き起こす。また慣習的規範よりも、通文化的な道徳的規範の方が憤りは激しい。さらに違反者に対して寛容な態度を取る者へも同様の憤りを引き起こす。

人は非道徳的な行為の犠牲者になったり、それを目撃した場合に、一般的にその行為者を処罰したいという強い願望を持つ。マナーやエチケット、慣習的規範への違反は軽率で粗野だと見なされるだけであるが、道徳的規範への違反は処罰の欲求を呼び起こす。政治学者フィリップ・テトロックによれば、規範への違反を目撃し、違反者が罰を逃れていると考えるとき、人は違反者への加害を抑制する道徳心の閾値を切り下げるようである。そして厳しい処罰を要求し、違反とは関連のないことにまで判断が影響する。例えば違反者の曖昧な態度をより敵対的と見なすようになり、不可抗力の要因の役割を割り引いてみるようになる[8]。

マーク・ハウザーとファレイ・カシュマンはトロッコ問題などを利用し、どのような原理が道徳判断(特に危害に関する)に影響を与えるのかを調査した[9][10]。彼らによれば、
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行動の原理:行動による害(例えば誰かが死ぬような出来事)は行動しなかったことによる危害よりも、非道徳的だと判断される
意図の原理:意図を持ってとった行動は、意図を持たずにとった行動よりも非道徳的だと判断される
接触の原理:肉体的な接触を伴う危害は、肉体的な接触のない危害よりも非道徳的だと判断される
心理学者ジョン・ダーレーによれば、大学生の被験者は刑罰の抑止力を考慮するよりもその犯罪にふさわしいと思われる刑罰を望んだ。刑罰の抑止力を考慮するよう注意された後でも、やはり「因果応報」である処罰を望んだ。「罰が課されない限り、社会と被害者は正義が執行されなかったという感覚を持ち続ける」。彼は『なぜ罰するのか?:罰の動機としての抑止力と因果応報』と題された論文で、処罰の欲求は犯罪抑止力に関する要因(例えば犯罪の露見可能性や社会的影響)とは関連が薄く、人々はより単純に罪の重大さランク付けし、もっとも深刻な犯罪にはその社会でもっとも重い罰(例えば追放、終身刑、死刑、拷問を伴う死刑)を与えなければならないと考えるのだと結論した。

2009年04月24日

ポラリス (恒星)

ポラリス(Polaris )は現在の北極星で、こぐま座で最も明るい恒星である。バイエル名こぐま座α星、フラムスティード名こぐま座1番星。「プトレマイオスの星表」でも「ティコの星表」でも、それぞれこぐま座の最初に掲げられていた。

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ポラリスは、北極距離が2000年分点で約44分と天の北極に非常に近い位置にあり、最も天の北極に近付く2100年の前後数世紀間は北極星となっている。
ポラリスは三重連星で、黄色輝巨星(または超巨星)でセファイド変光星でもあるポラリスAと明るい黄色の主系列星であるポラリスBとが約2700天文単位離れて回り合う実視連星となっている。ポラリスBは中口径の望遠鏡でも見ることができ、1780年にウィリアム・ハーシェルによって発見された。1929年に分光観測によって、ポラリスAにもう1つ非常に距離の近い伴星(ポラリスP、ポラリスa、ポラリスAbなどと呼ばれる)が存在することが明らかになった。2006年1月にアメリカ航空宇宙局はハッブル宇宙望遠鏡でポラリスを撮影し、3つ全ての星を直接撮影することに成功した。ポラリスAに近い方の伴星は主星であるポラリスAからの距離が約20天文単位しか離れていないため、主星の光に埋もれてほとんど見ることができない

ポラリスまでの距離はヒッパルコス衛星によるアストロメトリー観測によって431光年(132パーセク)と求められている。ポラリスAのスペクトル型はF7型の輝巨星 (II)または超巨星 (Ib) である。ポラリスBはF3V型の主系列星で、ポラリスAbはポラリスAのすぐ近くを公転する矮星である。最近の観測で、ポラリスはA,F型の恒星からなる集中度の低い散開星団の一部である可能性も示唆されている。

巨星であるポラリスAは古典的な種族Iのセファイド変光星である(銀緯が高いため、かつては種族IIであると考えられたこともあった)。セファイド変光星は距離測定の標準光源として用いることができる重要な天体であるため、地球から最も近いセファイドであるポラリスは詳しく研究されている。1900年頃の観測では、ポラリスは約3.97日の周期で平均光度から約±8%の振幅で変光していた。しかし20世紀半ばになるとこの星の変光の幅は急速に減少した。1990年代半ばには変光幅は1%にまで減少し、現在も低い水準が続いている。またこの約100年間で平均光度は約15%明るくなり、変光周期は1年に約8秒の割合で延びている。

2009年04月07日

巨大都市ロスアンジェルス

南カリフォルニア [編集]
巨大都市ロスアンジェルスはニューヨークと並ぶ音楽産業の中心であり、1970年代以前から「アンダーグラウンド」の規模も大きくその音楽的内容・活動姿勢ともに多様な音楽活動を包含したと考えられ、単一のローカルシーンとみなすことはできない。しかし、その中で1970年代後半の、ニューヨークやロンドンと比べてローカルであったニューウェーヴ・パンクシーンからさらにロスアンジェルス郊外のハードコア・パンクシーンが枝分かれしていく過程は、1977年に高校生のファンジンとして創刊された『フリップサイド』(en:Flipside (fanzine))によく記録されている。当初はニューヨークやロンドンのバンド公演の合間に登場するだけだった地元バンドが増えると共に、「アート系対ストリート系」、「ヒッピーパンク対サーフパンク」といった色分けがなされるようになる。「ストリート系」「サーフパンク」は、ロスアンジェルスのサウスベイやオレンジ・カウンティなど郊外の未成年者を指し、これらのライブハウスで問題を起こしやすい層に人気のブラック・フラッグ、ミドルクラスといったバンドはやがて都心のライブハウスからは締め出され、郊外各地の常設・臨時のライブ会場を拠点として「ハードコア・シーン」が形成されていくことになる。注目すべき点は、これらの色分けがあくまで聴き手の分類であって、ミニットメンやレッドクロス、あるいはTSOLといったバンド自体の音楽は、ニューウェーブ・ポストパンクやメタルなどさまざまな要素を含んでいた、という点である。新たに参入したディセンダンツはサーフポップのメロディーをこの地域のハードコアに持ち込んだ。

ロスアンジェルスでのライブの機会が限られる中、知名度の高かったブラック・フラッグやミニットメンは頻繁にツアーを行ない、アメリカ各地にハードコアシーンが形成される契機を作った。ブラック・フラッグの自主レーベルSST・レコードは、LAで親交のあったバンドだけでなく、これらのツアー活動を通じて知り合ったアリゾナのミートパペッツ、ミネアポリスのハスカー・ドゥ、ニューヨークのバッド・ブレインズ、ソニックユース、ダイナソーJr.といったバンドの作品をリリースし、1980年代の代表的なUSオルタナティブ・インディー・レーベルとして知られる。

ロスアンジェルスは映画産業の中心地でもあり、映画に登場したり映画音楽に起用されたりしたバンドも多い。1980年代初期のハードコア・シーンをよく伝える映画としては、オレンジ・カウンティーのハードコアバンド、ソーシャル・ディストーションとユースブリゲードが1982年スクールバスを改造したツアーバスで試みた全米ツアーを中心とする映画『アナザー・ステート・オブ・マインド』や、1984年のフィクション『サバービア』がある。

1984年にはハードコア・ブームはピークを迎え、ロスアンジェルスでも地元のイヴェンターGoldenvoiceが、各地の人気バンドやUKハードコアのバンドをヘッドライナーとしてオリンピック・アリーナのような大きな会場で頻繁にイヴェントを開催するようになる。このような、メインストリーム的なハードコア・パンク・イヴェントからは地元のバンドの多くが締め出され、様式化したハードコア・パンクと各地のハードコア・シーンの乖離が進んでいたことを『フリップサイド』は伝えている。1980年代半ばにはロスアンジェルスはグラム・メタル、次いでスラッシュ・メタルといったメタルのメインストリームでのブームの中心として各地から集まったアンダーグラウンドなバンドの活動が盛んになっており、パンクバンドの演奏機会は失われていた。しかし、1980年代末からバッド・レリジョンとそのレーベルエピタフ・レコードのメロディック・ハードコアが人気を集め、1990年代パンク・リバイバルの中心の一つとみなされるようになった。

ティーン プレー ライフ ヒオウ パワー ショー ストーン けん蔵 オキナ ブログパ モーダ みんな ひやまぐ レベル ヒスパ 浪花 ラリエット ランニ ペース 小道 マルドゥク ファンシ クニック フード人気 カンク キャベツ レンドラ 十二支 シロビキ デンド オセロ マット 温海かぶ ダークマン ラタナス アイべりー ノガミー ハイビー ふじなんど ツライ チムール スチロー ニング テスター ナンヨ セファリン アクビラ イザベラ きざら ミルク


2009年03月23日

試験終了による廃車

試験車は大きく分けると次の3タイプになる。

A 新造車…試験のためだけに開発された車両。今までと全く違う機器を搭載していたり、車体形状が突飛であったり(例…新幹線500系電車900番台《WIN350》)、編成内でバラバラであることも多い(例…JR東日本E993系電車《ACトレイン》)。
B 改造車…台車やモーターなど一部分のみの試験を行う車両。在来の車両に改造や仕様変更を行っただけなので、旅客運転をしながらデータ収集を行うことも多い(例…国鉄103系電車DDM駆動改造車《モハ103-502》)。
C 先行試作車…次期新造車両の性能を確認するための車両。新造車と違うのは、量産を念頭に置いた車両である点と、実際に客扱いを行う点で、突飛な姿をしていることはまずない(例…JR東日本901系→JR東日本209系900・910・920番台)。
また、客の評価や運用上の問題点などを調べ、量産車に反映させる役割も担っている(例…JR西日本681系電車(現在の681系1000番台))。
このうちAが旅客車に改造されることはまずなく、試験終了と共に引退するものがほとんどである。その際に耐久試験として重りに潰されたり、障害物に激突させたり(例…JR東日本E991系電車 (初代)《TRY-Z》)して原形を留めない姿で解体されて行くものも多い。ただし、国鉄キハ391系気動車や新幹線955形電車《300X》・新幹線500系電車900番台《WIN350》・新幹線952形・953形電車《STAR21》などの高速試験用新幹線電車のように試験終了後も現在に至るまで保存されているものもある(ただし、新幹線955形電車と新幹線500系電車900番台の中間車はすべて解体され現存しない)。

また、Bは試験終了後は一般型に戻されるケースもある(例…JR西日本221系電車160km/h走行対応改造車)が、基本的にはそのままの姿で使用され続ける。しかし、種車に旧型の車両を選んでいた場合は牽引車や入れ替え車として再利用される場合を除いて廃車されてしまう場合がほとんどである。また一部の試験車などでは一旦は運行を開始したが、保守などの取り扱い上の問題から早期に廃車となる例もある。

Cは量産型に合わせた量産化改造が行われ、新形式の一員として使用され続けるものがほとんどである(例…JR西日本207系電車量産先行車、新幹線700系電車)。しかし、量産が中止になったり、量産時に大幅な設計変更が行われた場合、その車両は異端車として早めに休車・処分されたり(例…国鉄415系電車クハ415-1901)、新形式登場後も引き続き試験用として使用されたりすることもある(例…新幹線N700系電車)。また、無事に運用を開始したとしても量産編成の中間に組み込まれたり(例…国鉄201系電車900番台)、支線運用に就き続けたりする場合が多い(例…営団6000系電車1次試作車)。中には国鉄207系電車など未だに本線で運用されている例もある。同車は1986年に次世代型VVVFインバータ制御試作車として登場したが、当時はまだ半導体技術が未熟であったため、コストが掛かり過ぎるなどの理由で、同タイプの車両の量産に至らなかった(国鉄分割民営化後にJR西日本が新設計で207系を新造・量産した)。また国鉄DE50形ディーゼル機関車のように量産先行形として試作を行い実際の営業運転でも良好な成績を残したたものの、その後の環境の変化(全国的な電化の進捗)により量産しても需要が見込めないなどとして、結局1形式1両の先行試作機だけが残ってしまったというケースもある。
マンモ チンク クンツ きうい ゆうばり イタリティ スペーサー パーラー デモリ スカス タブレット リターン シーシー レーター ロマンス ゲストハ トレー ハンガリー シャツト スペシャル ゼロ クランド オービ ミオーダー ヒュウ ドロー ディガン ほわい レッド ニュー キュラー つきだて 大化の改新 きくもん ブマリン トルコ サーキッ ローカル フォア ケヤキ フェイス ビッグ トリロジー キット 森の小人 レジン パンタロン リクル ストーリ デージ

イベントトレイン・ジョイフルトレインの廃車 [編集]
イベントトレインとジョイフルトレインは多くが旧型車の改造によって製造されており、改造の種車自体の車齢が高いものが多い。そういった車両に展望化やハイデッカー化など無理な工事を施せば当然各部が老朽化してくる。また特定の列車専用の改造をした車両が多いために転属も難しい。そのため、その列車が廃止されればそのまま廃車にされる場合が多い。特に最近では団体旅行の減少等旅行スタイルの多角化や、不況も後押しして廃止が相次ぎ、これらの車両の数も減少傾向にある。

これらの車両が残存する場合には次のようなものがある。

団体専用車になる場合…イベントトレイン・ジョイフルトレインは元々団体用の車両もあるだけに、これが最も多いパターンである。ほぼ無改造で転用される場合がほとんどであるが、一部の客車列車などには欧風→和風の改造(逆もあり)など内装の変更が行われる場合もある。このパターンではJR西日本の国鉄キハ65形気動車エーデル・シュプール&リゾート改造車などがある。
別のジョイフルトレインに改造される場合…経年の浅い車両では再改造されて別のジョイフルトレインになる場合もある。国鉄キハ183系気動車1000番台がいい例で、「オランダ村特急」→「ゆふいんの森(II)」→「シーボルト」→「ゆふDX(赤→黄)」と5回も変わっている。このパターンの場合の改造は主に内装と塗色変更を中心に行われる。
全く別の車両になる場合…非常に稀な話だが数例がある。例えばクロ212-1がクヤ212-1U@Tech試験車に改造された例が挙げられる。
一般車に戻される場合…改造が塗装の変更など少しであった場合や、各種ビアホールトレインなど、元々期間限定であった場合などに行われる。元に戻った後は他車と全く区別が付かなくなる場合もしばしばである。また戦後の混乱期には車両数を確保するために展望車などを無理矢理改造したこともあった。前者の例としては1000系「ブルーライナー」などが、後者の例としては江ノ電の納涼電車などが挙げられる。
一般車に格下げされる場合…これには2パターンあり、元々グリーン車や座席指定の車両を普通車(自由席)にする場合と、運用がなくなったイベントトレインとジョイフルトレインを一般車と共通運用にする場合がある。前者の場合、リニューアル改造などが同時に行われることも多いが、後者の場合は無改造であったり、座席の固定化などの簡単な改造で済ますことも多い。前者の例ではKenjiなどが、後者の例では近江鉄道700系電車などが当てはまるほか、最近の国鉄色復元車もこれに含まれる。戦中・戦後の混乱期には輸送力を確保するため、一等寝台車などを三等車(普通車)に改造した例もあった。
地方私鉄に譲渡される場合…大手私鉄で余剰となった車両でも、バスや自家用車との乗客確保争いに明け暮れる地方私鉄では重要な戦力になる場合も少なくない。後述のようにその鉄道会社に合わせた改造が行われることがほとんどだが、内装はそのまま使われることも多い。会津鉄道キハ8500系気動車や富士急行2000形電車など例も多い。ジョイフルトレインでは、わたらせ渓谷鉄道の「サロン・ド・わたらせ」(旧JR東日本「やすらぎ」)、富士急行「フジサン特急」(旧JR東日本「パノラマエクスプレス・アルプス」)の例が存在する。

2009年03月07日

ボルチモア (重巡洋艦)

ボルチモア (USS Baltimore, CA-68) は、アメリカ海軍の重巡洋艦。ボルチモア級の1番艦。艦名はメリーランド州ボルチモアに因む。その名を持つ艦としては5隻目。

艦歴
ボルチモアは1941年5月26日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール社、フォアリバー造船所でで起工し、1942年7月28日にハワード・W・ジャクソンボルチモア市長夫人によって進水する。1943年4月15日にW・C・カルフーン艦長の指揮下就役し、太平洋艦隊に配属された。
くさずり ピーエ ヒロイ 翼を広げて ソーセージ ピータ シプレ ハサップ オット ラビア ジョイ サザンカ 建久お スノー ロシア スマク ハッピー フレイン さけかす ストリーム ドザーサイ グアム 白龍支 イーシー ソート ティング マシンガン コンタ レンズ プリクラ くす最新 ジャス ヤマイモ ワンパタハ 空の庭 ビックス フリーフ フレーム タグトゥ ライダー キネシス テキサ らくがん イーユー マイア バチカン フォトレ ディナー いしけんご ハクビ

1943年11月から1944年6月にかけて、ボルチモアはマキン島上陸(1943年11月20日 - 12月4日)、クェゼリン侵攻(1944年1月29日 - 2月8日)、トラック島攻撃(2月16日 - 2月17日)、エニウェトク制圧(2月17日 - 3月2日)、マリアナ諸島攻撃(2月21日 - 2月22日)、パラオ - ヤップ - ウルシー - ウォレアイ攻撃(3月30日 - 4月1日)、ホーランディア上陸(4月21日 - 4月24日)、トラック - サタワン - ポナペ攻撃(4月29日 - 5月1日)、マーカス島空襲(5月19日 - 5月20日)、ウェーク島空襲(5月23日)、サイパン侵攻(6月11日 - 6月24日)、マリアナ沖海戦(6月19日 - 6月20日)等に参加し、火力支援、援護を行った。

1944年7月に帰国すると、ボルチモアはフランクリン・ルーズベルト大統領とその一行を乗せ、真珠湾に向けて出航する。大統領はチェスター・ニミッツ提督、ダグラス・マッカーサー将軍と会った後にアラスカに向かい、1944年8月9日に下艦した。

ボルチモアは1944年11月に戦線復帰、第3艦隊に配属され、ルソン島攻撃(1944年12月14日 - 16日、1945年1月6日 - 7日)、台湾攻撃(1月3日、4日、9日、15日、21日)、中国沿岸攻撃(1月12日、16日)、沖縄攻撃(1月22日)に参加した。

1月26日にボルチモアは第5艦隊に合流し、日本本土攻撃(2月16日、17日)、硫黄島侵攻作戦(2月19日 - 3月5日)、沖縄戦での第5艦隊の支援(3月18日 - 6月10日)といった一連の戦闘に参加する。

8月15日に日本は降伏し、ボルチモアはマジック・カーペット作戦に参加、帰還兵の輸送を行い、また日本の占領業務に参加する(1945年11月29日 - 1946年2月17日)。1946年2月17日に本国への帰路に就き、帰国すると1946年7月8日にワシントン州ブレマートンで予備役となる。

ボルチモアは1951年11月28日に再就役し、大西洋艦隊に配属される。1952年、53年、54年の夏には第6艦隊に配属され地中海に展開する。1953年6月にアメリカ海軍の代表としてスピットヘッドで行われたエリザベス2世による戴冠記念観艦式に参加する。1955年1月5日に太平洋艦隊へ転属となり、1955年2月から8月まで第7艦隊の一部として極東に展開した。

ボルチモアは任務を完了し、帰国するとモスボール保管に入る。1956年5月31日にワシントン州ブレマートンで予備役となり、1971年2月15日に除籍、1972年5月10日に売却されオレゴン州ポートランドでスクラップとして処分された。

ボルチモアは第二次世界大戦の戦功で9つの従軍星章を受章した。

北朝鮮のプロパガンダ
ボルチモアを「撃沈」したという魚雷艇21号
解説ボード平壌の博物館にはボルチモアを撃沈したという魚雷艇21号が展示されている。1950年7月2日、北朝鮮海軍の魚雷艇がボルチモアを撃沈したとして、写真入りの解説と共に展示されているが、実際にはボルチモアは第二次世界大戦後戦闘には参加せず、もちろん朝鮮戦争にも従軍していない。

2009年02月19日

U.S.S.エンタープライズE/シャトル (スタートレック)

U.S.S.エンタープライズE(U.S.S.Enterprise-E)はSFドラマ「スタートレック」シリーズの映画である『スタートレック ファーストコンタクト』(Star Trek: First Contact)、『スタートレック 叛乱』(Star Trek: Insurrection)、『ネメシス/S.T.X』 (Star Trek: Nemesis)に登場する架空の宇宙船。本来の艦名はU.S.S.エンタープライズ(U.S.S.Enterprise)だが、同名の艦と区別するために登録番号の末尾記号をつけて呼ばれることが多い。

ソヴェリン級探査艦で、登録番号はNCC-1701-E。
ロマネ スラッ ピロシキ 地上SEO 舌切雀 かばいろ ルート マリーゴ ムービン ムレザー カミング モダン フェド セット ライト ヨーガ プティカル パワポ フェイ ひちく 芽ばえ ムーブ 紅い川 キワノ カルソン まだい リリース ヨーソロー ズンバ トアル ヒアシンス ザフスタン おたる あまおう ピンチ カシス ハウス ジョホール スプライ ロード スハマ キャット レディ 葦の恋 セラミック バジル ダーツ 承平上位 チムニ プラセ

艦長はジャン=リュック・ピカード。

全長:685m 重量:320万5千トン デッキ数:24 乗員:854名

惑星連邦宇宙艦隊所属で、べリディアン三号星にて大破した、U.S.S.エンタープライズDに代わって任務に就いた最新鋭艦で、伝説の名艦『エンタープライズ』の名を冠する、6番目の艦。

対ボーグとの戦闘を前提に開発された艦で、NX-74205「U.S.S.ディファイアント」のノウハウ[1]が生かされている。U.S.S.エンタープライズDよりも全長が44m大きくなったにも関わらず横幅が細くなり、重量が179万5千トン、乗員が約350名ほど減っているのは、戦闘力、防御力強化のために家族が乗船しない等、居住区などの制限を設けているからである。ワープ・ナセルの形状は先代のU.S.S.エンタープライズD、先々代のU.S.S.エンタープライズC(アンバサダー級)などと比較すると、船体に対してかなり長大なものになっており、発光部分がナセル上部に位置していることもあって、むしろさらに前の型であるU.S.S.エンタープライズB(エクセルシオール級)に近いが、U.S.S.ヴォイジャーの可変ワープナセルで開発された技術を応用、発展させているようで、ワープナセルが固定式であるにもかかわらずワープ5以上のワープ航行を行っても時空連続体に悪影響を与えないようになっている。

また、この艦にもU.S.S.ヴォイジャーより採用された緊急用医療ホログラム(EMH)が搭載されている。これはU.S.S.ヴォイジャーに搭載されていたものと同じ「EMH TYPE-1」型(ルイス・ジマーマン博士の外見を持つ初期型)である。

攻撃および防御システム
主な攻撃システムは、光子魚雷および量子魚雷を数百発搭載。魚雷発射管が3門あり、一度に12発の発射可能。フェイザーはタイプ12を装備し、フェイザー・アレイが第1船体上面に7ヶ所、下面に5ヶ所あり、事実上死角はない。

量子魚雷は艦隊内で唯一(建造当時)、エンタープライズEが搭載している兵器であり、U.S.S.エンタープライズDとは比較にならない戦闘能力を色濃く示している。

なお、量子魚雷は、エンタープライズEの就役と前後して、宇宙ステーション・ディープ・スペース・ナインに配備されていた戦闘艦NX-74205「U.S.S.ディファイアント」や、一部の大型航宙艦などに装備されるようになり、ボーグの2回目の地球侵攻時やドミニオン戦争時などに使用された。

制御システム
制御システムにはU.S.S.ヴォイジャーにも搭載されていた、『バイオ神経回路』を搭載しているため、情報処理速度は従来の艦よりもかなり高速化されている。

デッキ構成
第1デッキ:メイン・ブリッジ、艦長作戦室、観察ラウンジ
第11デッキ:デフレクター制御室、水耕栽培室、星図作成室
第16デッキ:機関室

艦載機
クストー - 艦長専用シャトル(captain's yacht)。シャトルベイではなく量子魚雷ランチャー下に装着されている。
名称不明 - 惑星バクーでデータ捕捉に使用された。
シャトルクラフトアルゴ - 全地形対応車搭載

シャトル (Shuttle) とは、SFテレビドラマ / 映画『スタートレック』シリーズに登場する短距離連絡用宇宙船の総称である。惑星連邦の航宙艦は一部の例外を除いて大気圏突入能力を持たないので、惑星地表へ降下するためには転送装置かシャトルを使う必要がある。

大型のものをシャトルクラフト (Shuttlecraft)、小型のものをシャトルポッド (Shuttlepod) ともいう。一度に乗れるのは数人から十数人で、超光速航行は出来ないか、出来てもワープ速度や航続距離が小さい。

なお、『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』に登場するランナバウト (Runabout) はシャトルクラフトより一回り大きくワープ能力も高いが、日本語吹替版では「シャトル」と呼ばれている。

宇宙大作戦
クラスFシャトルクラフト
U.S.S.エンタープライズ所属機
コロンブス (NCC-1701/2)
アインシュタイン (NCC-1701/6)
ガリレオ (NCC-1701/7)
その他の施設所属
ピカソ (SB11-1201/1)

スタートレック?スタートレックVI
U.S.S.エンタープライズA所属機
ガリレオ
その他のシャトル
スラク(ヴァルカン製の長距離シャトル)

新スタートレック以降
タイプ2シャトルクラフト
U.S.S.ヴォイジャー所属機
タイプ6シャトルクラフト
ゴダード(U.S.S.エンタープライズD所属機)
サカジャウェア(U.S.S.ヴォイジャー所属機)
タイプ7シャトルクラフト
サハロフ(U.S.S.エンタープライズD所属機)
タイプ8シャトルクラフト
U.S.S.ヴォイジャー所属機
タイプ9シャトルクラフト
コクレーン(U.S.S.ヴォイジャー所属機)
タイプ10シャトルクラフト
チャフィー(U.S.S.ディファイアント所属機)
タイプ不明シャトルクラフト
ドレイク(U.S.S.ヴォイジャー所属機)
タイプ15シャトルポッド
エルバズ(U.S.S.エンタープライズD所属機)
タイプ18シャトルポッド
シャトル01(U.S.S.ディファイアント所属機)
アルゴ(不整地走行車搭載型シャトルクラフト、U.S.S.エンタープライズE所属機)
艦長専用艇(U.S.S.エンタープライズD所属機)
デルタ・フライヤー(U.S.S.ヴォイジャー所属機)
ドナウ級ランナバウト(ディープ・スペース・ナイン所属機)
イエローストーン級ランナバウト(平行世界の実験機)

2009年02月03日

後小松天皇

後小松天皇(ごこまつてんのう、永和3年/天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:永徳2年/弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。名は幹仁(もとひと)。
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明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、在位期間が南北朝合一以降(1392-1412)に繰り下げられてしまっている。

後円融天皇の第1皇子。母は内大臣三条公忠の娘、通陽門院藤原厳子[1]。また、風狂の禅僧一休宗純は後小松の落胤とも伝えられている。

女院:藤原(日野西)資子(光範門院)(1384-1440) - 日野西資国女、資教養女
第1皇子:実仁親王(称光天皇) - (1412-1428)
第2皇子:某(小川宮)(1404-1425)
第1皇女:理永女王(1406-1447) - 大聖寺
猶子:彦仁王(後花園天皇) - 崇光天皇曾孫、伏見宮貞成親王王子
典侍:藤原(甘露寺)経子 - 甘露寺兼長女
宮人:源(土岐)氏
宮人:源(白川)資忠女
宮人:藤原氏(南朝遺臣の女で、花山院家出身と伝える)
皇子:一休宗純(1394-1481) - 大徳寺。落胤説があるが真相は不明。

系図
〔北朝〕

治仁王

(北1)光厳天皇 (北3)崇光天皇 栄仁親王 貞成親王
(後崇光院) (102)後花園天皇

(北2)光明天皇 貞常親王 〔伏見宮家〕

長助法親王 (北4)後光厳天皇 (北5)後円融天皇 (北6)(100)
後小松天皇 (101)称光天皇

珣子内親王
(後醍醐天皇中宮、
新室町院) 皇子某(小川宮)

〔南朝〕

(96)後醍醐天皇 尊良親王

世良親王

護良親王
(尊雲法親王) 興良親王

恒良親王 (98)長慶天皇

成良親王 (99)後亀山天皇 〔小倉宮〕

(97)後村上天皇 良成親王(鎮西宮)

宗良親王
(尊澄法親王)

懐良親王

日野資教邸で養育される。弘和2年(1382年)12月28日、父の後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位、後円融上皇による院政が行われた。朝廷内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの公家を主従関係の下に置いた室町幕府3代将軍足利義満と上皇の関係は険悪であり、両者は対立する。明徳4年(1393年)に後円融上皇が死去すると、義満はさらに朝廷への影響を強め、事実上の上皇として、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るい、後小松はその下でまったくの傀儡に甘んじた。

応永19年(1412年)8月29日、後小松は皇子の実仁親王(称光天皇)に譲位し、院政を開始。これは明徳3年(1392年)の南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、その後南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。

称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の次男小川宮も早世したため後継者問題が生じ、後小松上皇は4代将軍足利義持と協議、後継者として崇光流の伏見宮貞成親王が有力視され、一時は後小松の猶子として親王宣下された。しかし、これには称光が激しく反発したため、貞成は出家して皇位継承を断念した。正長元年(1428年)にいよいよ称光が危篤となると、6代将軍足利義教の仲介で貞成の子息彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させた。

称光・後花園の2代にわたり院政を行い、この間永享3年(1431年)に出家している。永享5年(1433年)10月20日に死去。享年57。

諡号・追号・異名
遺諡により「後小松院」と追号された。ちなみに「小松帝」は第58代光孝天皇の異名。光孝天皇は兄の孫・陽成天皇の廃位のち皇位につき、その子孫は長く皇位を保った。崇光系への皇統移行が現実となった今、自らの正統性を諡号によって示そうとした後小松の固い意志が感じ取れる。また、称光天皇の容態が思わしくなかった1426年に後小松が『本朝皇胤紹運録』の作成を命じて、皇室の系図の整理を行わせているのもこうした自身の正統性への思い入れの反映であると考えられる。

在位中の元号
永徳 (1382年4月11日) - 1384年2月27日
至徳 1384年2月27日 - 1387年8月23日
嘉慶 1387年8月23日 - 1389年2月9日
康応 1389年2月29日 - 1390年3月26日
明徳 1390年3月26日 - 1394年7月5日
応永 1394年7月5日 - (1421年12月19日)

2009年01月20日

サンスクリットのディヤーナ

サンスクリットのディヤーナ、パーリ語のジャーナ(Dhyāna,Jhāna サンスクリット:?????)が中国で音写され禅那(ゼンナ)、禅(ゼン)になった。正しい表記は禪、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)以後は現表記となる。現代北京語の発音はチャンである。

禅の字義は天・山川を祀る、譲り与える、開くといったもの。これに心の働きを集中させるという意味を与えて禅となし、心を静かにして動揺させないという意味を与えて定とし、音写に意味を加えて禅定と意訳する。圭峰宗密の著書禅源諸詮集都序には、禅の根元は仏性にあるとし、仏性を悟るのが智慧であり、智慧を修するのが定であり、禅那はこれを併せていうとある。また、達磨が伝えた宗旨のみが真実の禅那に相応するから禅宗と名付けた、ともある。他の訳に、思惟修(しゆいしゅう)・静慮(じょうりょ)・棄悪・功徳叢林・念修。漢訳仏典には駄衍那(だえんな)・持阿那(じあな)と音写している例もある。

ディヤーナを現在の日本語にすると瞑想となる。ちなみにヨーガ(yoga)も現在の日本語にすると瞑想とされるが、本来は心を調御して統一に導くことをいう。瞑想は動作を言葉で説明する事ができるが、禅は不立文字である為、瞑想と禅は明らかに異なる物であり、本来は区別される。この瞑想と禅の混同は英語等の語彙の少ない言語を介して訳されて生じると考えられる。

中国では禅定が同義語。類似の概念として三昧(Samādhi、サンスクリット)がある。「禅」あるいは「定」という言葉は、インドにその起源を持ち、それが指す瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。ゴータマ・シッダッタも禅定によって悟りを開いたとされ、部派仏教においては「三学」(戒・定・慧)の一つとして、また、大乗仏教においては「六波羅蜜」(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の一つとして、仏道修行に欠かせないものと考えられてきた。

中国の禅
以下のように、『景?傳燈?』などの中国禅の文献に記述されている。 インドではマハーカーシャパ(摩訶迦葉)から法が順に伝えられ、ボーディダルマ(菩提達磨)によってインドから中国に、禅の教えが広められたと主張し、権威付けを行っている。

マハーカーシャパはバラモン階級出身の弟子で、釈迦の法嗣とされる(法の継承者)が、拈華微笑といわれている伝説が宋代の禅籍『無門関』に見られる。

世尊、昔霊山(霊鷲山、グリドラクータ)会上に在りて、花を拈(ひね)りて衆に示す。是の時衆皆な黙然として、惟だ迦葉尊者のみ破顔して微笑す。
世尊云「吾に、正しき法眼の蔵にして涅槃の妙心(正法眼蔵・涅槃妙心)、実相・無相・微妙の法門有り。文字を立てず教外に別伝し(不立文字・教外別伝)、摩訶迦葉に付嘱す」と。

? 『無門関』第一巻(世尊拈華)

禅が中国で実際に禅宗として確立したのは、東山法門と呼ばれた四祖道信(580年 - 651年)、五祖弘忍(601年 - 674年)以降である。

ジーセ ヨガア シチュー タン総合 ハニート マイペー ブラカップ ローラー 冬の花火 マンダ ヤーン パンチカド オーバル クロマ 海眺望 トルエ ナンプラー シーオーイ インター ケット モブシ 京野 リンケ オーディ ユニコー オプテ クローザー ハーバ ナイタ スカップ パラド ショコラ ショート サイクリ ナサ ブルー ハロウィン ナックル 湾岸道路 ユンド ロールカ ロイシン テアフ ライフ プライス パワー センサス セオドラ ソフト ミラノ

さらに六祖慧能(638年 - 713年)の名を使用し、弟子の荷澤神会が編纂したと考えられている『六祖大師法宝壇経(六祖壇経)』に新しい坐禅と禅定の定義が宣揚されたのを契機として発展したものと考えられる。

師衆に示して云く、
「善知識よ、何をか名づけて坐禅とするや。
此の法門中は、無障無礙なり。外に一切の善悪の境界に於て、心念が起こらざるを名づけて坐と為し、内に自性を見て動ぜざるを名づけて禅と為す。
善知識よ、何をか名づけて禅定とするや。
外に相を離るるを禅と為し、内に乱れざるを定と為す。外に若し相著れれば、内に心即ち乱れ、外に若し相を離れれば、心即ち乱れず、本性は自浄・自定なり。
只だ境を見、境を思えば即ち乱るると為す。若し諸境を見て心乱れざれば、是れ真の定なり。
善知識よ、外に相を離るる即ち禅、内に乱れざる即ち定なり。外に禅、内に定なり。是れ禅定と為す。
菩薩戒経に云く『我れ本元自性清浄なり』
善知識よ、念ずるとき念中に、自ら本性清浄なるを見、自ら修し、自ら行じ、自ら成ずるが仏道なり。

? 『六祖壇経』坐禅第五

さらに『景?傳燈?』に載せる、慧能の弟子の南岳懐譲(677年 - 744年)とさらにその弟子の馬祖道一(709年 - 788年)の逸話によって坐禅に対する禅宗の姿勢が明らかとなる。

開元中に沙門道一有りて伝法院に住し常日坐禅す。
師是れ法器なるを知り、往きて問う、曰く「大徳、坐禅して什麼(いんも、何)をか図る」
一(道一)曰く「仏と作るを図る」
師乃ち一磚(かわら)を取りて彼の庵前の石上に於て磨く。
一曰く「師、什麼をか作す」
師曰く「磨きて鏡と作す」
一曰く「磚を磨きて豈(あに)鏡と成るを得んや」
「坐禅して豈仏と成るを得んや」
一曰く「如何が即ち是れなる」
師曰く「人の駕車行かざる(とき)の如し。車を打つ即ち是れ、牛を打つ即ち是れ」
一、対無し。
師又曰く「汝坐禅を学ぶは、坐仏を学ぶを為すや。若しは坐禅を学べば、禅は坐臥に非ず。若しは坐仏を学べば、仏は定相に非ず。無住の法に於て、取捨に応ぜず。汝若しは坐仏、即ち是れ仏を殺し、若しは坐相に執さば、其の理に達するに非ず」
一、示誨(じかい、教え)を聞きて、醍醐を飲む如し。

? 『景?傳燈?』巻第五

この部分に中国禅宗の要諦が尽されているが、伝統的な仏教の瞑想から大きく飛躍していることがわかる。また一方に、禅宗は釈迦一代の教説を誹謗するものだ、と非難するものがいるのも無理ないことである。しかし、これはあくまでも般若波羅蜜の実践を思想以前の根本から追究した真摯な仏教であり、唐代から宋代にかけて禅宗が興隆を極めたのも事実である。

般若波羅蜜は、此岸―彼岸といった二項対立的な智を超越することを意味するが、瞑想による超越ということでなく、中国禅の祖師たちは、心念の起こらぬところ、即ち概念の分節以前のところに帰ることを目指したのである。だからその活動の中での対話の記録―禅語録―は、日常のロゴスの立場で読むと意味が通らないのである。

中国では老子を開祖とする道教との交流が多かったと思われ、老子の教えと中国禅の共通点は多い。知識を中心としたそれまでの中国の仏教に対して、知識と瞑想による漸悟でなく、頓悟を目標とした仏教として禅は中国で大きな発展を見た。また、禅宗では悟りの伝達である「伝灯」が重んじられ、師匠から弟子へと法が嗣がれて行った。

やがて、北宋代になると、法眼文益が提唱した「五家」観念が一般化して「五家」(五宗)が成立した。さらに、臨済宗中から、黄龍派と楊岐阜派の勢力が伸長し、「五家」と肩を並べるまでになり、この二派を含めて「五家七宗」(ごけしちしゅう)という概念が生まれた。

さらに禅は、もはや禅僧のみの占有物ではなかった。禅本来のもつ能動性により、社会との交渉を積極的にはたらきかけた。よって、教団の枠組みを超え、朱子学・陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、水墨による山水画や庭園造立などの美術などの、様々な文化的な事象に広範な影響を与えた。